【最終章 ── 縁の景】

【最終章 ── 縁の景】

前回の「土の景」で、私たちはすべてを受け止める大地──「受容」の器と、泥のなかで太く深く伸ばされる「根(アイデンティティ)」について触れました。

土の中での静寂と沈黙の時間を経て、物語はいよいよ、命が解き放たれる最高峰の結びへと向かいます。

日本では日常の中で、当たり前のように「ご縁をいただいて」「ご縁がなくて」という言葉が使われます。けれど、私たちが口にする「縁」とは、一体何なのでしょうか。

かつて大学の恩師と「ご縁とは何か」をめぐり激論を交わした際、恩師はこう言いました。 「ご縁とは抽象的なものであり、すべては結果論なのだ」と。

当時はその言葉の意味を深く模索していましたが、ある仏教の住職から授かった「仏教とは、目に見えない抽象的なことを具体化していく営みなのだ」という教えと重なったとき、ひとつの答えに辿り着きました。



「縁」とは、棚から落ちてくるような偶然ではありません。 泥の底で悩み、もがき、自らの「根っこ」を必死に伸ばしてきた歳月の果てに、振り返って初めて「ああ、この出会いのためにあの苦難があったのだ」と立ち現れる、必然の結実──それが結果論としての「縁」の正体です。

天からの浄化の雨を一身に受け、自らが根を張る「土」の記憶を吸い上げて咲く紫陽花(あじさい)のように。 紫陽花は、自らのエゴで色を主張するのではなく、身を置く土壌(環境)をそのまま受け入れ、その奥ゆかしい色を空間に滲ませます。

そして、その姿は決して一つの巨大な花ではありません。 小さな命が静かに身を寄せ合い、互いに結びつくことで、ひとつの美しい「円(縁)」を描き出しているのです。 人は、一人で咲くことはできません。 そして「縁」が結ばれるのは、外側の他者とだけではないはずです。

SHIZENNECTIONが手掛けているのは、目に見えない抽象的な想いや美学を、繋げて、デバイスや空間という具体的な形(しつらえ)として世に届けることです。

私たちが創り出す空間に触れたとき、誰もが表層のエゴや日常の気負いをそっと手放し、自らの奥底に眠る「最も深く、高い自分(高次の自己)」と静かに繋がり直していく。

主語を手放した透明な空間で、自分自身の内なる聖地と結ばれ、人と人が魂の奥底で共鳴し合える「紫陽花のような美しい円」をしつらえること。

いまこの場所に巡り会えた奇跡の中に、すべては必然の「結果」として美しく結実していきます。

これにて、水・雲・土、そして縁へと至る四景の物語は、ひとつの美しい円環(和)を描いて完結します。

けれど、ここからが本当の始まりです。 深く結ばれたこの場所から、また新しい風がふいてきます。

掲載写真:

代官山ヒルサイドテラスにて出合われた、染谷香理氏(島根県出身)の作品『あじさい』より。記憶の中で、そっと救ってくれている静かな花。 出雲(島根)の土の気配を宿したその作品と、あの歳月も、いまこの場所に辿り着くための「必然の縁」でした。

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